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Photo by 売れないカメラマン(でいいのかな、公称は?)
飯田 亮介について
2003年11月記。
1974年横浜生まれ、日本人男性。
幼年期から現在に至るまで、故郷、神奈川県座間市の市立図書館をこよなく愛する。中学時代から、日本国内の自転車キャンプ旅行を始める。北海道一周など。
1993年静岡県三島市の日本大学国際関係学部国際文化学科中国文化コース入学。
在学時は、山岳部に2年、フォークギター同好会に4年間在籍。「酔ツパラヒニモ負ケズ、雪ニモ負ケズ、失恋ニ負ケタラ、ポロポロト弾キ、金ガ入レバ、皆デ飲ム。ソンナヒト二私ハナリタヰ」と三島駅南口でのギター弾き語り、通称「駅南ライブ」を友と楽しむ。レパートリーはブルーハーツから「歌姫」中島みゆき。金曜の夜が狙い目であったが、ギターケースに入った投げ銭がはたして、実力ゆえであったか、同情ゆえであったかは今も謎。同学で中国語を学んだのをきっかけに、在学時より中国、おもに雲南省シーサパンナ・タイ族自治州に足しげに通うようになる。大学卒業後まもなく、卒業論文「雲南省麗江ナシ族の宗教」の研究を続けるため、雲南省昆明市の雲南民族学院に留学を開始するが、学校よりもライブ喫茶に日々通い、現地の友人たちとバンド活動にいそしむ不良留学生として局地的に名を馳せる結果になる。ただし、それでも中国語会話力だけは昆明の留学生の間で一二を争うレベルであった。当時、やはり雲南民族学院に留学中であったベネチア大学の女学生(先日、妻となる)と真剣な恋に落ち、イタリアにゆくことを決意する。
1999年、ペルージャ外国人大学に入学
果たしてイタリアに自分が住めるものかどうか知るために、イタリア語の学習を開始する。同学には18ヶ月在籍。この年から現在に至るまで、大部分の時間をイタリアで過ごす。「日本の何が恋しい?」と尋ねられると、「本、そして座間市立図書館」と答える本の虫は、その限界を越えるためにイタリア語の本を物色し始める。そして、ティツィアーノ・テルツァーニ氏の『In Asia』(ホームページに紹介あり)に出会うことになる。
9・11から現在
Tiziano Terzani Fun Clubのニュースメールを通じ、テロ事件後の彼の反戦運動(作者は欧米各国を巡り、さまざまな人々、特にアメリカによる報復の支持者たちとの会話を試みた)そして著書Lettere contro la guerra『反戦の手紙』を知る。読了後、彼にファンレターを送ると、驚いたことにすぐさま返事があり、翻訳し、日本でも紹介してくれと要請される。強い使命感とともに翻訳、出版社探しを始めるが、どちらも暗中模索・五里霧中で、2003年初頭には挫折しかかる。イタリア伝統家具職人である恋人の父(現在は義父・舅)の仕事を手伝いつつ、『反戦の手紙』の再度翻訳などをしていたこの六月、ふと、2万読者を持つメールマガジン・萬晩報主筆の伴氏に一筆書いてみることを思いつく。
そして、8月。いたばし国際絵本翻訳コンクール・イタリア語部門大賞受賞の機会に帰国し、伴氏と出会い、楽しく語る機会を得る。九月、萬晩報に『反戦の手紙』が紹介され、大きな反響を得る。
そして、WAVE出版社より、2004年『反戦の手紙』を出版予定。
マルケ州モントットーネ村に在住する無職・飯田亮介は、今のところ、このまま文芸翻訳家としての道を歩んでいけないものかと、八百万の神に祈祷中(そして修業中)。台湾人の友人によれば、「男の人生は結婚直前と、はじめての子供が産まれた直後に幸運が舞い降りる」と言うことである。
結婚直前の幸運は本当のようだ、もはや結婚してしまったからには……いそいで子供をつくらなくては!困った。どうやって、養おう?翻訳の仕事をつづけるには幸運が必要だ・幸運のためには子供が欲しい・子供のためには仕事が居る……
人生七味:甘くもあれば、辛くもあり、酸っぱくもあれば、苦くもあり、あと、三つの味はなんだっけ、、、そのうち分かる日が来るに違いない。
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