「平和のカミカゼ」
の反戦の手紙
Salviamoci. Nessun altro puo' fare per noi.
『私たちを救おう。それが出来るのは、私たちだけなのだから。』
本書はイタリア人ジャーナリスト、ティツィアーノ・テルツァーニの二〇〇二年三月作品『Lettere contro la guerra』の全訳に、作者が二〇〇三年十二月に書き下ろした日本人読者にあてたメッセージの訳を加えたものである。
本書の巻頭にあるそのメッセージを読んでいただければ数行目にはおわかりのように、読者がこのページを眼にしている今、末期ガンに冒されたテルツァーニは既にこの世の人ではないかもしれない。このメッセージが本当に「日本人への遺書」とならぬことを私は心から願っている。
反戦の手紙』は、9・11テロに対する復讐という最も原始的なアメリカの反応とそれを支持した「国際社会」の動きに危機感を抱き、アフガニスタン空爆開始直後に単身現地に向かったテルツァーニの旅の記録である。それは反テロ戦争の現場をゆく旅であると同時に、平和な世界実現のために必死に思索をつづける作者の心のなかの旅でもあった。
9・11テロ直後のイタリア、「ならず者国家」から突如として「反テロ同盟国」となったパキスタン、「不朽の自由作戦」が続くアフガニスタン、そして作者が現在、隠遁生活をおくるインド・ヒマラヤ山中でそれぞれ綴られた八通の手紙で成り立つ本書は、イタリアで発行されたのち、フランス・ドイツ・スペインでも翻訳出版され各国で大きな反響を呼んだ(英語版はインドでの出版のみ。アメリカ・イギリスでも出版予定があったが出版社の政治的判断により中止された)。
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アメリカ一辺倒のマスメディアからは一向に伝わってこなかったこの戦争の隠された姿を伝え、「テロリストを攻撃することでは、テロリズムの問題は解決できない。テロリストたちの道理を理解し、テロリズムを生む原因をまず解決することが必要だ」と訴え、「非暴力による平和の実現」こそを唯一の解決策であると結論づけるテルツァーニの『反戦の手紙』は、アフガニスタン攻撃へとすすむ「国際社会」の動きに対し、なにか納得ゆかぬものを感じてはいたものの、ツインタワーの悲劇の衝撃のあまりの大きさに、反対の声をあげることをためらっていた多くの人々に勇気を与える一冊となった。
イタリアでの発売開始からわずか二週間で十万部の成功を収めたあとも、平和を祈るテルツァーニの歩みはとどまることを知らなかった。「わたしと平和について語りたいものがあれば、どこにでも行こう」との彼の宣言に対し、イタリア全土の学校、市町村、果ては監獄に至るまで、さまざまな場所でさまざまな人々と平和について語り合う「平和の巡礼の旅」が生まれた(そのとき公表された彼の電子メールアドレスをたよりに、私はテルツァーニと初めてコンタクトをとることになる)。その後、欧米各国で数十万人から数百万人規模の反戦デモがつぎつぎに起こってゆくことになるが、彼のこの「平和の巡礼の旅」はそのさきがけとも言えるものだった。
ここで、テルツァーニの人生について簡単に触れてみたい。
一九三八年フィレンツェ生まれ。十六歳のときに、いつも最後の方にゴールをきっていたクロスカントリー・レースで、「レースを走るかわりに、描写してみないか」とあるスポーツ新聞の記者にスカウトされたのが、彼の長いジャーナリスト人生の始まりであった。
「私はいつも『なにか別のもの』を見たいとおもっていた、そしてアジアには、なにか私たちがまだ学ぶべきものがあるように思えた」と語るテルツァーニは、一九六五年、当時勤務していたイタリア企業の指導員として訪れた日本での一ヶ月を皮切りに、現在にいたるまでアジアに暮らしつづけることになった。
一九七一年から二〇〇一年、三十年にわたる独デル・シュピーゲル誌とのアジア特派員としての契約は彼に、家族とともにアジア各国(シンガポール1971-1975、香港1975-1979、中国1979-1984、香港1984-1985、日本1985-1990、タイ1990-1994、インド1994-現在)に暮らす機会を与えると同時に、はげしく変動するアジア大陸の数々の歴史的瞬間の目撃者となることを可能にした。テルツァーニがデル・シュピーゲルを初めとする欧米各国の報道機関に報告したアジアの歴史には、彼が北ベトナム軍のサイゴン制圧の瞬間にたちあった数少ないジャーナリストの一人にもなったベトナム戦争、「反革命罪」で共産党政府に逮捕され強制退去処分をうけた文革直後の中国滞在、一九八九年天安門事件直後の中国潜入、一九九一年のソビエト崩壊などがある。日本でも、バブル経済最盛期からその崩壊過程における世相、昭和天皇崩御前後の「自粛」により機能停止してしまった日本社会などをその裏表から観察した興味深い記事を数多く記している。
アジアに暮らしつづけ、現地の民衆の生活とその喜怒哀楽を目の当たりにしつづける彼ならではの独特な観点は、新聞や雑誌の記事のみならず、数冊のルポルタージュ作品にも生かされてきた。ベトナム戦争に捧げられた処女作「Pelle di leopardo」(一九七三年作品)、サイゴン解放にたちあった類い稀なる経験からは「Giai Phong! La liberazione di Saigon」、(一九七六年作品)、ジャーナリストの勲章「強制退去」に終わった長い中国滞在を綴った「 La porta proibita 」(一九八五年作品)、たまたまシベリアにいた作者が、ソ連崩壊の兆しとなったゴルバチョフに対するクーデターの知らせに、一路モスクワをめざした旅の記録「Buonanotte, Signor Lenin」(一九九二年作品)。
そして、テルツァーニの作品の中でもわたしが個人的に一番好きな「Un Indovino mi disse」(一九九三年作品)。タイトルは日本語にすれば「占い師はわたしに言った」とでもなろうか、かつて香港の老占い師に言われた「一九九三年は飛んではならぬ!」という言葉を思い出した作者が、その忠告通り、「ひとつの挑戦として」飛行機に乗らず、しかもそれまで通りに各国をめぐるアジア特派員としての職務を果たしぬいた一九九三年の記録である。おもしろいのは「決して飛ばない」という誓いにくわえ、テルツァーニがもう一つ自分に課した「行く先々で、その土地最高の占い師に将来をうらなってもらう」という誓いから生まれた、じつに様々な占い師を巡る旅の顛末である。つねに「客観性」を求められるジャーナリストとして占いや迷信などのオカルト世界を避けて生きていた作者のそれまでの世界観が、彼にとっては未知であった「精神的世界」との出会いを通じて、新たな次元にたっするその変化の過程を読者に追体験させてくれる一冊である。
一九九四年からインドに暮らし始めたテルツァーニは、一九九七年をもってデル・シュピーゲル誌との契約を休止し、ヒマラヤ山中にひきこもることで、ジャーナリズムの世界との縁を、いやむしろ俗世間との縁を切った。その直後の一九九八年に刊行された「In Asia」は、過去三十年間のテルツァーニの記事を年代順にまとめあげたもので、彼のジャーナリスト人生の文字通りの集大成であると同時に、アジア大陸の激動の三〇年をたどる貴重な資料となっている。
ヒマラヤ山中に隠遁生活を送っていたはずのテルツァーニが突如、その沈黙をやぶったのが、二〇〇二年三月発行の本書『反戦の手紙』である。アメリカにくらす孫のノヴァリスが大きくなったとき平和の道を選んでくれることを願って、彼に捧げられた本書は、人類の将来を希望するテルツァーニの祈りの書である。
『さあ、立ち止まろう。我々の子孫の視点から今この瞬間を見つめてみよう。素晴らしい機会を一つ失ったことを後になって悔やまずに済むように、将来(あした)の視点から今日を見つめてみることだ。』(本書「ヒマラヤからの手紙」より)
私たちを恐怖させた9・11テロこそ、現在の世界の歩みをかえる「一つの素晴らしい機会」とみたテルツァーニの直感的な意見は、一見、非現実的で極端なものに思えるかもしれない。だが一方で、現在の「反テロ戦争」が世界に平和をもたらすという米ブッシュ政権を初めとする各国政府の主張に心から納得している人がどれだけいることだろうか。作者は9・11テロ直後に、「反テロ戦争」がアフガニスタンからイラクや他の国々へと波及してゆくことを既に予見していた。この戦争は、やはり彼の予見通り、テロリズムを撲滅するどころか、その新たな犠牲者の中から多くのテロリストを生みつづけるに違いない。そこでテルツァーニは、この「素晴らしい機会」に我々がいったん立ち止まり、「暴力は暴力を生むことしかない」ことを理解し、非暴力にもとづいて「私たち一人ひとりが何かをする」ことこそ、現実的な唯一の解決策であると訴えかけているのである。
Amica, amico giapponese, Niente nelle nostre vite e' un caso.
「わが日本の友よ。人生に起こるすべては、偶然ではない。」
この言葉ではじまる序文は、私たち日本人だけに与えられた特別な、「九通目の」反戦の手紙だ。『反戦の手紙』は「偶然の力」をたよりにアフガニスタンを目指したテルツァーニの旅の記録でもある。そこに生まれた彼の歩みは、ただの「偶然」によるものとかたづけるには余りにすばらしい、多くの出会いに満ちた旅となった。そんな実感から生まれたのが、上の言葉であるに違いない。
いまこうして彼の言葉が日本人読者のもとに届くことになったその過程をふりかえってみても、ただの偶然の積み重ねとは思えぬものがある。私事で恐縮だが、中国に留学していたはずの私が、ひょんな理由からテルツァーニの故国イタリアで彼の母国語を学習することになり、さらには彼の著作の世界に出会い、テルツァーニとのコンタクトに成功し、なんのあてもなく、ただ、なにか大きな使命感のようなものにかられて始めた『反戦の手紙』の日本語訳をついには出版して頂けることになったのも、やはりただの「偶然ではない」ように思う――またそう思うことで、なにやら不思議な、未来への希望が湧いてくる。
テルツァーニをアジアにいざなう一つのきっかけとなった国、日本。そこではじめて出版される彼の著作、『反戦の手紙』。この出会いから、つぎは何がおきるのだろうか。
そしてわたしたち日本人は、彼の手紙にどう応えてゆけるのだろう。
邦訳出版のきっかけを作ってくださった『萬晩報』の伴主筆、WAVE出版の玉越社長、その他の様々な方々のご尽力に感謝を致します。妻エマヌエラを初め、いろいろな形で翻訳作業に手を貸してくれた友人諸君にも多謝。そして何より、ヒマラヤ山中で闘病中にもかかわらず、あたたかい応援の言葉を送りつづけてくれた作者に「TERZANIさん、GRAZIE MILLE!」。
二〇〇三年 師走 モントットーネ村にて
訳者
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