2004.11.12更新

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LETTERE CONTRO LA GUERRA

『反戦の手紙』


このページでは2002年2月Longanesi社出版のティツィアーノ・テルツアーニ作、「Lettere contro la guerra」を紹介しています。これまで、萬晩報(よろずばんぽう)さんの紹介を初め、さまざまな方の助けを借り、わたしの訳しました日本語版を出版をしてくださる方を探してきましたが、この度WAVE出版から出版希望の申し出を頂きました!
出版社探しにご協力して下さった皆さまに、心からの御礼を申し上げます。
2003年10月15日 飯田 亮介

リンク:拙訳が紹介された「萬晩報」2003/09/12号


 「反戦の手紙」がついに出版されました!
 WAVE出版より1600円プラス消費税で、全国有名書店で販売中です。お近くの本屋さんにない場合は、お取り寄せになるか、Amazon.co.jpなどでご注文下さい。

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お約束通り、作者から日本人読者にあてて書かれた序文「わが日本の友へ」だけは、このページで公開いたします。これは校正前の私の手元にある原稿なので、出版されている「反戦の手紙」の序章とは細かい部分で表現などが違うかもしれません。その点、ご了承下さい。
 

2004年1月26日 
日本の実家にて、飯田 亮介



目次
日本人読者へのメッセージ「わが日本の友よ」(作者序文、校正前原稿より)
「反戦の手紙」解説(訳者あとがき、同上)
「反戦の手紙」目次


「わが日本の友よ」Acrobat Readerファイル(204k)

「反戦の手紙」バナー
この本を自分のHPで宣伝してやろうという、心優しき方は左のバナーをご利用下さい
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「反戦の手紙」日本語版刊行にあたり、テルツァーニ氏から送られた
日本人読者へのメッセージ

→プリント用バージョン

わが日本の友よ、

 人生におこるすべては、偶然ではない。そしてもちろん、あなたが私のこの小さな本を手にとったのも、いまこうして私の言葉をよんでいるのも偶然ではない。そこで頼みがある。読みつづけてくれ、すくなくともあと二行は。なぜならそこにあるものは、私の最期の言葉たちの一部であり、それが誠実な言葉であることはまちがいないのだから。あなたの富士山とおなじ、聖なるヒマラヤの山をながめながら、末期ガンをかかえ、もはや世間のあれこれへの個人的な関心という重荷をもたぬ者の軽快な心で、わたしはこれを書いている。だが私にも、人としての関心がひとつだけのこっている。この恐るべき驚異、私たちの種族「人類」の運命だ。

 だから、わが読者よ、あなたに頼みがある。われわれを滅ぼしつつある暴力の蛮行から人類を救うために、私たちの一人ひとりが、私たちにできる範囲で、私たちに残された時間のなかで何かをしよう。

 あとのページにつづく八通の「反戦の手紙」をわたしは二年前に書いた。その内容が今もいかに通用することか、そして、一つの恐怖のあとにはまた一つの恐怖が続き、そのあとには更なる恐怖が続くという私の予想がどれだけ正確なものであったのかを知ることは、慰めになるどころか、どうか信じてくれ、むしろ絶望的なことなのだ。9・11テロに続くアフガニスタン戦争にイラクの戦争。バリ島の爆弾テロに続く、モロッコ、サウジアラビア、トルコの爆弾テロ。あすはどこだろう?ロンドンか、ローマか、それとも銀座だろうか?私たちの運命が、二年前よりも、さらに大きな危険にさらされているような気がしてならない。

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 世界全体は今、9・11テロ直後よりもさらに危機的な状況にあり、われわれの文明的共存は、日ごとにその文明的性格を失いつつある。わたしたちはテロリズムに対し文明を守るという言い訳で、文明そのものを破壊しつつあるのだ。誰もが知っているように、文明とは、いずれも今のところ捨て置かれている諸原則や諸法律、各国際協定でなりたつものである。グアンタナモはこの現象の最も下劣な例である。国連がのけ者にされているのはこの傾向の不安な指標といえる。

 多くの国々がその憲法に導入した文明の偉大なるあかし、紛争を解決する手段としての戦争の放棄は、いまや「予防戦争」という野蛮な新しい原則にその座を奪われてしまった。

 つまり日本の友よ、ここで問われているのは、イラクに自衛隊を派遣するかしないか、派遣するならば今か後か、100人送るか1000人送るか、それとも2000人かなどということではないのだ。そのような問いは、国民のだれもを納得させて再当選をはたすためにアクロバットと妥協をつづけざるをえない政治家たちのジレンマにすぎない。そこには全人類的な価値への関心、正しいことや倫理的なことへの考慮が完全に欠落している。むしろ私とあなたにとって問題なのは、暴力と戦争はなにも解決しないということ、戦争の味と臭いのするあらゆることに対して私たちは、たとえそれが「自衛行為」とか「人道的作戦」などというふうに説明される時も、もちうる力のすべてを以て反対しなければならないということを、どのような状況にあっても自分の意志できっぱりと決意することなのだ。

 まさに他でもない日本人であればこそ、あなたには、世界の他のどこの市民よりも大きな声で「Nooo!」とさけぶ資格があるのだ。

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 二十年前、「反革命罪」で中国共産党政府に訴えられ同国から追放されたわたしに、当時わたしを雇っていたデル・シュピーゲル誌は、つぎはどの国で特派員をしたいかとたずねてきた。いくつもの選択肢があったが、わたしは迷わなかった。あなたの国、日本にゆくことに決めたのだ。それには明確な理由があった。想像しうる恐怖の最たるもの、原子爆弾のホロコーストを経験した国民のあいだで暮らしてみたかったのだ。あの経験があなたの国の文化にどのような新しい平和文化の種をまくことになったか、そして、命に対するあの侮辱行為を二度と繰り返さぬために、人類があなたたち日本人から何を学ぶことができるかを私は知りたいと思ったのだった。

 わたしは日本に五年間滞在した。ヒロシマとナガサキになんども通い、ヒバクシャたちと語りあい、子供のころ「黒い雨」を浴びた一人のすばらしい建築家という友もえた。だが最後には私はひどく失望していた。それは日本という国が、あの経験をひとつの教訓に昇華させるために、そして世界情勢に対し独自の姿勢をうちだすために、余りにわずかなことしかしていなかったからだった。あるときヒロシマでわたしが書いた記事はつぎのように始まっていた。『そこの鳩たちまで、訪れる平和主義者たちの与える議論とエサに飽き飽きしてしまっている。』

 だが、何をするにも遅すぎるということはない。それにこの「反テロリズムのグローバル戦争」は、あらゆることを改めて考え直し、あともどりをするのに最適なひとつの機会であり、ヒロシマ・ナガサキの歴史をすべては遠い過去のことであると偽り、あたかも何も起きはしなかったかの様なふりをするかわりに、それを思い出すのに最適な機会なのだ。ひょっとすると、これが最後のチャンスかもしれない。

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 あなたたちを爆撃してから平和憲法を押し付けたうえで、自分の都合しだいで、今はそれを改めるよう仕向けてくる者たちに、この五十年間たとえ何を言い聞かせられてきたにせよ、あなたたち日本人は、世界の他のどんな民族もいまだ味わったことのない体験を自分の肌で知ったことがあるのだ。しかもそこで犠牲となったのは無辜の一般市民である。くりかえす、一般市民である!。だから今あなたたちには、政治家たちの偽善者ぶった日和見主義的な声ではなく、自分の声、心からの声をあげるという倫理的な権利がある。それが義務でもある。心は知っている。心は平和をもとめ、非暴力をもとめている。手の届かない高度をゆく爆撃機のキャビンで快適に腰掛けている誰か、またはコンピューターの前にいる誰かによって、ふたたび、幾千・幾万の子供たちが数秒で灰にされてしまうことなど、心はのぞんでいない。その子供たちが日本人であろうとなかろうと。

 だれが誤っていて、だれが正しいのかが問題なのではない(あの当時だれが誤っていて、正しかったかでもない)。そうではなく、正しいのは自分だと思いこみ、間違っていると決めつけた相手を殺してしまう者がでることを、いま避けることが大切なのだ。イスラエル人とパレスチナ人、いったいどっちが間違っていて、どちらが正しい?どちらでもなく、実はその双方でもあるのだ。ものごとの観点を変えることが大切だ。人類をひとつにまとめるものを正しいと見なし、分断するあらゆるものを誤りと見なすべきなのだ。

 イスラエル問題の解決策?全ユダヤ人がきっぱりとヒットラーを許し、ドイツ人を許し、彼らの味わった苦しみが史上唯一にして最大のものであったと考えることをやめる必要がある。イスラエル政府がパレスチナの一般市民にあたえる苦しみは、それと同じくらいに大きなものであり、それゆえ、多くのパレスチナの若者を自爆テロに走らせることになるのだ。当然のことながら彼らにしても、世界の若者たちと同じく、できるものならば生きていたいはずだ。

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 自分の考え方が「ポリティカリー・コレクト(=政治的に適当)」であるかどうかという恐れをもつことなく、ものごとの偽善的な見方をやめなければならない。イスラエルの現政権がナチス・ドイツ的な政策を続けていると口に出すことは、反ユダヤ主義者であるということではないのだ。おなじことを多くのイスラエル人も言っている。北朝鮮やイランのような国々の大量破壊兵器開発を望まないのはともかく、自分は新世代の核兵器(誰に対して使用するというのか?)の研究開発の許可を議会で通過させたアメリカ合衆国のブッシュ政権こそが、人類にとって今日最大の危険な存在であると口に出すことは、反米主義者であるということにはならない。じつに多くの、絶望した米国民たちがおなじ発言をしているのだ。

 国際連合が取るに足らない存在になった?良かろう。今こそ、国連組織全体の建て直しが必要であるとの議論がなされるべき時だ。五十年前の戦争の勝者たちだけが世界の運命に口出しできるなどということ自体、ナンセンスなのだから。世界がリッチな日本に毎度毎度あれこれ資金援助を求めてくるならば(今回はアメリカのイラク「復興」——もしくは占領か?——に数十億の支援をするとのことだが)、世界の国々は日本が安全保障理事会のポストを得ることを認めるべきなのだ。そしてインドかブラジルも理事国であるべきだし、アフリカの代表もいくらかそれに加わるべきだろう。

 私たちは過去のあらゆる先入観をすてさり、あらたな方法で考えてみなければいけない。他人がつくったテロリズムの定義、自由・民主主義・ゆたかさ・発展の定義を受け入れてはならない。われわれにさらなる兵器の備蓄を必要とさせる「敵」などいないと考えはじめる必要があるのだ。そのような兵器は巡り巡って私たちの頭上に落ちてくることになる。

 平和なくらしを求めることは馬鹿げたことではない。大切なのはそれを強く希求すること、そして、そのための働きかけを始めることなのだ。それも、いますぐに

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 その意味であなたの日本は、わたしがその土地の出身であることを誇りに思う「老いたヨーロッパ」とおなじく、果たすべき重大な役割をになっている。わたしの民族の歴史は、わが日本の読者よ、あなたの民族の歴史とおなじく、勝ち負け両方のかずかずの戦い、無数の死者、徹底的に破壊された無数の町からなる長い物語だ。戦争の恐怖はあなたのDNAのなかにも、私のDNAのなかにもある。そこでだ、わたしたちのこの遺伝的経験を、幸運なことにその恐怖をいままで味わったことのない人々のために役立ててやろうではないか。アメリカ人たちがその自殺行為を免れることができるように、みんなで助けてやろう。彼らの自殺行為は結局、私たちをも自殺に追い込むことになるものだ。

 勇気をださなければならない。「友情」や「恩返し」のために殺人者になってはならないし、その共犯者になることすらあってはならない。これは群れの心理なのだ。少年たちの集団がひとりの少女を殺した場合、つまりそれが個人に対する殺人である場合、だれもがこの心理を非難する。だが、その集団が軍服を身に付け、無数の人々を殺す時、おなじ心理が受け入れられてしまうのだ。 

 NOだ。あらゆる暴力的なことに参加するのをやめよう。私たちにはそうするだけの正当な理由がある。ニュルンベルク裁判同様、東京裁判の裁判官たちは、単に命令に従っただけだという被告人たちの弁明を受け入れなかった。では私たちもまず、自分の心の命じるもの以外はあらゆる命令を拒否しようではないか。

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 イタリアでこの本が出版されたとき(訳注・二〇〇二年二月)、平和について語り合うために私を招待する者があればどこでも行こうとわたしは宣言した。結果、そこには非暴力のための巡礼の旅のようなものが生まれ、それはわたしを勇気づける体験となった。学校や劇場、市町村議会の会議室などで語り、町から町へと行くうちに、わたしは数限りない人々と出会うことになり、特に若者たち、わたしと同じように考え、自分の意見を誰かにきかせたがっている実に多くの若者たちと出会った。イラク戦争へといたる続く数ヶ月、私たちはイタリア中の道の上を、数十万の群集からなる平和の大行進をして歩いた。だが、それは何の役にもたたなかった。国家の利益よりも自分の個人の利益により強い関心があることを、その国家運営のなかで顕示したシルヴィオ・ベルルスコーニ首相。彼のひきいるイタリア政府は世論の過半数の反対にもかかわらず、米軍のイラク占領部隊に追従する形で、「人道的作戦」を使命とするイタリア兵三千名をイラクに送り込んだ。つい先日、同イタリア兵のうち十九人がたった一発の爆弾で殺された。招かれざる国へ軍服をきた兵士として向かう者にはこれからもおなじことが、それがどのような形であれ、起こり続けるにちがいない。

 平和のために語り合い・行進することは、本当になんの役にも立たなかったのだろうか。それは役に立ったのだ。数知れない若者たちのむねに一粒の種をまいたのだから。この非暴力の種はいつか花を咲かせることだろう。花咲かざるを得ないのだ、もし全人類が生きつづけたい、われわれが絶滅させてきた多くの生き物たちのように絶滅したくはないと望むのならば。

 この点においてわたしたち全員が結束していると考えることから、まず始めてみよう。イタリア人も日本人もない、私たちはみんな人間なのだ。あなたたちがその美しい島々の上、他の仲間たちから少しはなれたところにいるという事実は、あなたたちを何ひとつ守ってくれはしない。なんらかの形で暴力に加担すれば、やがておなじ暴力があなたたちにも降りかかってくることは間違いないのだ。

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 第二に、他人が決めつけた「敵」の定義を鵜呑みにすることはやめよう。敵をもたず、誰も憎まないようにしよう。そして消し去るべきものは敵対関係であり、敵自身ではないということを心に銘じておこう。

 この先、わたしたち自身が暴力の犠牲者となることもありうる。だが万一そうなったからと言って、非暴力の姿勢を変えてはならない。だれに対する憎しみも決して抱いてはならない。なぜなら、憎しみは新たな憎しみを生むだけだからだ。

 ヒロシマ・ナガサキにアメリカのふたつの原子爆弾が投下されてまもなくのことだ。ガンディーに、もし同じようなことが彼に起きたら、非暴力をどこまでも信奉する彼はいったい何をしただろうかと尋ねたものがあった。「原爆投下をしたパイロットに、いずれにせよ私は彼を憎んではいないと言うことを理解させようとしたことだろう。」ガンディーはそう答えている。

 非暴力はひとつのユートピアである。だからといって、絵空事を実現させるために私たちがあらゆる努力を払うことはないと言うことではない。それに、我が日本の読者よ、あなたにはじつに多くのことが出来るのだ。あなたの国の歴史を振り返ってみるがいい、そこには廉直さ、忍耐、忠誠、理想主義のたいへん素晴らしい例がたくさんあることに気がつくはずだ。あなたの国の伝統においてこれらの質は、戦士の階級に関連づけられることが多かった。戦争というものが、正々堂々と対決するジェントルマンたちと刀からなる名誉あるものであった頃の話だ。そこであなたにはこれらのおなじ質を、いま非暴力の戦士となるために用いることが可能なのだ。非暴力を説く私のイタリア巡礼の終わり頃のことだ。スイスのテレビ局がそのドキュメンタリーを制作し、そのなかで、私のことをこう呼んだ「平和のカミカゼ」。わたしはこの名を誇りにおもう。

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 ああ、わが日本の読者よ。わたしはあなたの生活を少しばかり知っている。あなたの日々の仕事がいかにつらいものであるかも知っている。何時間も電車に揺られ、人工の明かりの照らすオフィスで長い時間働き、いつも狭い空間に暮らしていることも。だがこれは、偉大な何かをあなたの人生にひとつ加えるチャンスなのだ。それが即ち、非暴力運動である。学び、読んでくれ。平和について考える人々と出会い、若者たちと語りあってくれ。あなたの国で偉大なる知恵のいくつかの頂点に達した仏教、その宗教的伝統にたちかえることだ。そしてなにより、歴史を忘れるな。ヒロシマとナガサキが何であったかを振りかえり、同じことがあなたの国や他の国の人々の身にふたたび起こることをはたして自分が望んでいるか、自問してくれ。

 捕らわれの身となったひとりのサムライが、親友と会う約束をまもるために自殺して果てたという物語が昔からわたしは好きだった。さて、数ヶ月のうちに、わたしもまた自分の肉体を去ることになる訳だが——遅かれ早かれ誰にでも起こることだ——後のページにつづく言葉たちがその後も反響し続けてくれるという事実をわたしは頼りにしている。なぜなら、実のところその言葉たちはわたし個人のものではなく、誰の心のなかにもあるものだからだ。それにひょっとしたら、日本や世界で平和のために働くわが友人たちと会う約束を守ることすら、私には出来るかもしれない。人生におこるすべては、偶然ではないのだ。

 

 わが読者よ、あなたの人生の幸運を祈っている。

インド・ヒマラヤ 二〇〇三年十二月


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訳者あとがき

「平和のカミカゼ」 KAMIKAZE DELLA PACE の反戦の手紙

Salviamoci. Nessun altro puo' fare per noi.
『私たちを救おう。それが出来るのは、私たちだけなのだから。』

  

 本書はイタリア人ジャーナリスト、ティツィアーノ・テルツァーニの二〇〇二年三月作品『Lettere contro la guerra』の全訳に、作者が二〇〇三年十二月に書き下ろした日本人読者にあてたメッセージの訳を加えたものである。

 本書の巻頭にあるそのメッセージを読んでいただければ数行目にはおわかりのように、読者がこのページを眼にしている今、末期ガンに冒されたテルツァーニは既にこの世の人ではないかもしれない。このメッセージが本当に「日本人への遺書」とならぬことを私は心から願っている。

 反戦の手紙』は、9・11テロに対する復讐という最も原始的なアメリカの反応とそれを支持した「国際社会」の動きに危機感を抱き、アフガニスタン空爆開始直後に単身現地に向かったテルツァーニの旅の記録である。それは反テロ戦争の現場をゆく旅であると同時に、平和な世界実現のために必死に思索をつづける作者の心のなかの旅でもあった。

 9・11テロ直後のイタリア、「ならず者国家」から突如として「反テロ同盟国」となったパキスタン、「不朽の自由作戦」が続くアフガニスタン、そして作者が現在、隠遁生活をおくるインド・ヒマラヤ山中でそれぞれ綴られた八通の手紙で成り立つ本書は、イタリアで発行されたのち、フランス・ドイツ・スペインでも翻訳出版され各国で大きな反響を呼んだ(英語版はインドでの出版のみ。アメリカ・イギリスでも出版予定があったが出版社の政治的判断により中止された)。

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 アメリカ一辺倒のマスメディアからは一向に伝わってこなかったこの戦争の隠された姿を伝え、「テロリストを攻撃することでは、テロリズムの問題は解決できない。テロリストたちの道理を理解し、テロリズムを生む原因をまず解決することが必要だ」と訴え、「非暴力による平和の実現」こそを唯一の解決策であると結論づけるテルツァーニの『反戦の手紙』は、アフガニスタン攻撃へとすすむ「国際社会」の動きに対し、なにか納得ゆかぬものを感じてはいたものの、ツインタワーの悲劇の衝撃のあまりの大きさに、反対の声をあげることをためらっていた多くの人々に勇気を与える一冊となった。

                                                       

 イタリアでの発売開始からわずか二週間で十万部の成功を収めたあとも、平和を祈るテルツァーニの歩みはとどまることを知らなかった。「わたしと平和について語りたいものがあれば、どこにでも行こう」との彼の宣言に対し、イタリア全土の学校、市町村、果ては監獄に至るまで、さまざまな場所でさまざまな人々と平和について語り合う「平和の巡礼の旅」が生まれた(そのとき公表された彼の電子メールアドレスをたよりに、私はテルツァーニと初めてコンタクトをとることになる)。その後、欧米各国で数十万人から数百万人規模の反戦デモがつぎつぎに起こってゆくことになるが、彼のこの「平和の巡礼の旅」はそのさきがけとも言えるものだった。

 ここで、テルツァーニの人生について簡単に触れてみたい。

 一九三八年フィレンツェ生まれ。十六歳のときに、いつも最後の方にゴールをきっていたクロスカントリー・レースで、「レースを走るかわりに、描写してみないか」とあるスポーツ新聞の記者にスカウトされたのが、彼の長いジャーナリスト人生の始まりであった。

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 「私はいつも『なにか別のもの』を見たいとおもっていた、そしてアジアには、なにか私たちがまだ学ぶべきものがあるように思えた」と語るテルツァーニは、一九六五年、当時勤務していたイタリア企業の指導員として訪れた日本での一ヶ月を皮切りに、現在にいたるまでアジアに暮らしつづけることになった。

 一九七一年から二〇〇一年、三十年にわたる独デル・シュピーゲル誌とのアジア特派員としての契約は彼に、家族とともにアジア各国(シンガポール1971-1975、香港1975-1979、中国1979-1984、香港1984-1985、日本1985-1990、タイ1990-1994、インド1994-現在)に暮らす機会を与えると同時に、はげしく変動するアジア大陸の数々の歴史的瞬間の目撃者となることを可能にした。テルツァーニがデル・シュピーゲルを初めとする欧米各国の報道機関に報告したアジアの歴史には、彼が北ベトナム軍のサイゴン制圧の瞬間にたちあった数少ないジャーナリストの一人にもなったベトナム戦争、「反革命罪」で共産党政府に逮捕され強制退去処分をうけた文革直後の中国滞在、一九八九年天安門事件直後の中国潜入、一九九一年のソビエト崩壊などがある。日本でも、バブル経済最盛期からその崩壊過程における世相、昭和天皇崩御前後の「自粛」により機能停止してしまった日本社会などをその裏表から観察した興味深い記事を数多く記している。

 アジアに暮らしつづけ、現地の民衆の生活とその喜怒哀楽を目の当たりにしつづける彼ならではの独特な観点は、新聞や雑誌の記事のみならず、数冊のルポルタージュ作品にも生かされてきた。ベトナム戦争に捧げられた処女作「Pelle di leopardo」(一九七三年作品)、サイゴン解放にたちあった類い稀なる経験からは「Giai Phong! La liberazione di Saigon」、(一九七六年作品)、ジャーナリストの勲章「強制退去」に終わった長い中国滞在を綴った「 La porta proibita 」(一九八五年作品)、たまたまシベリアにいた作者が、ソ連崩壊の兆しとなったゴルバチョフに対するクーデターの知らせに、一路モスクワをめざした旅の記録「Buonanotte, Signor Lenin」(一九九二年作品)。

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 そして、テルツァーニの作品の中でもわたしが個人的に一番好きな「Un Indovino mi disse」(一九九三年作品)。タイトルは日本語にすれば「占い師はわたしに言った」とでもなろうか、かつて香港の老占い師に言われた「一九九三年は飛んではならぬ!」という言葉を思い出した作者が、その忠告通り、「ひとつの挑戦として」飛行機に乗らず、しかもそれまで通りに各国をめぐるアジア特派員としての職務を果たしぬいた一九九三年の記録である。おもしろいのは「決して飛ばない」という誓いにくわえ、テルツァーニがもう一つ自分に課した「行く先々で、その土地最高の占い師に将来をうらなってもらう」という誓いから生まれた、じつに様々な占い師を巡る旅の顛末である。つねに「客観性」を求められるジャーナリストとして占いや迷信などのオカルト世界を避けて生きていた作者のそれまでの世界観が、彼にとっては未知であった「精神的世界」との出会いを通じて、新たな次元にたっするその変化の過程を読者に追体験させてくれる一冊である。

 一九九四年からインドに暮らし始めたテルツァーニは、一九九七年をもってデル・シュピーゲル誌との契約を休止し、ヒマラヤ山中にひきこもることで、ジャーナリズムの世界との縁を、いやむしろ俗世間との縁を切った。その直後の一九九八年に刊行された「In Asia」は、過去三十年間のテルツァーニの記事を年代順にまとめあげたもので、彼のジャーナリスト人生の文字通りの集大成であると同時に、アジア大陸の激動の三〇年をたどる貴重な資料となっている。

 ヒマラヤ山中に隠遁生活を送っていたはずのテルツァーニが突如、その沈黙をやぶったのが、二〇〇二年三月発行の本書『反戦の手紙』である。アメリカにくらす孫のノヴァリスが大きくなったとき平和の道を選んでくれることを願って、彼に捧げられた本書は、人類の将来を希望するテルツァーニの祈りの書である。

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 『さあ、立ち止まろう。我々の子孫の視点から今この瞬間を見つめてみよう。素晴らしい機会を一つ失ったことを後になって悔やまずに済むように、将来(あした)の視点から今日を見つめてみることだ。』(本書「ヒマラヤからの手紙」より)

 私たちを恐怖させた9・11テロこそ、現在の世界の歩みをかえる「一つの素晴らしい機会」とみたテルツァーニの直感的な意見は、一見、非現実的で極端なものに思えるかもしれない。だが一方で、現在の「反テロ戦争」が世界に平和をもたらすという米ブッシュ政権を初めとする各国政府の主張に心から納得している人がどれだけいることだろうか。作者は9・11テロ直後に、「反テロ戦争」がアフガニスタンからイラクや他の国々へと波及してゆくことを既に予見していた。この戦争は、やはり彼の予見通り、テロリズムを撲滅するどころか、その新たな犠牲者の中から多くのテロリストを生みつづけるに違いない。そこでテルツァーニは、この「素晴らしい機会」に我々がいったん立ち止まり、「暴力は暴力を生むことしかない」ことを理解し、非暴力にもとづいて「私たち一人ひとりが何かをする」ことこそ、現実的な唯一の解決策であると訴えかけているのである。

 

Amica, amico giapponese, Niente nelle nostre vite e' un caso.
「わが日本の友よ。人生に起こるすべては、偶然ではない。」

 この言葉ではじまる序文は、私たち日本人だけに与えられた特別な、「九通目の」反戦の手紙だ。『反戦の手紙』は「偶然の力」をたよりにアフガニスタンを目指したテルツァーニの旅の記録でもある。そこに生まれた彼の歩みは、ただの「偶然」によるものとかたづけるには余りにすばらしい、多くの出会いに満ちた旅となった。そんな実感から生まれたのが、上の言葉であるに違いない。

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 いまこうして彼の言葉が日本人読者のもとに届くことになったその過程をふりかえってみても、ただの偶然の積み重ねとは思えぬものがある。私事で恐縮だが、中国に留学していたはずの私が、ひょんな理由からテルツァーニの故国イタリアで彼の母国語を学習することになり、さらには彼の著作の世界に出会い、テルツァーニとのコンタクトに成功し、なんのあてもなく、ただ、なにか大きな使命感のようなものにかられて始めた『反戦の手紙』の日本語訳をついには出版して頂けることになったのも、やはりただの「偶然ではない」ように思う――またそう思うことで、なにやら不思議な、未来への希望が湧いてくる。

 

 テルツァーニをアジアにいざなう一つのきっかけとなった国、日本。そこではじめて出版される彼の著作、『反戦の手紙』。この出会いから、つぎは何がおきるのだろうか。

 

 そしてわたしたち日本人は、彼の手紙にどう応えてゆけるのだろう。

 邦訳出版のきっかけを作ってくださった『萬晩報』の伴主筆、WAVE出版の玉越社長、その他の様々な方々のご尽力に感謝を致します。妻エマヌエラを初め、いろいろな形で翻訳作業に手を貸してくれた友人諸君にも多謝。そして何より、ヒマラヤ山中で闘病中にもかかわらず、あたたかい応援の言葉を送りつづけてくれた作者に「TERZANIさん、GRAZIE MILLE!」。

 二〇〇三年 師走 モントットーネ村にて
訳者

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目次は以下のようになっております。
  1. 日本の友への手紙
  2. 2001年9月10日「欠落した一日」
  3. オルシーニャからの手紙「素晴らしい機会」
  4. フィレンツェからの手紙「スルタンとサン・フランチェスコ」
  5. ペシャワールからの手紙「語り部たちのバザールにて」
  6. クエッタからの手紙「タリバーンとコンピューター」
  7. カブールからの手紙「ジャガイモ売りとオオカミたちの檻」
  8. インドからの手紙「ヘイ・ラーム」
  9. ヒマラヤからの手紙「何をすれば?」
 
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