Dedico questa pagina alla memoria del gran viaggiatore italiano che viaggio' nel male e nel bene del nostro tempo.
わたしたちの時代の善きもの・悪しきものの中を駆け抜けた、今は亡き一人の偉大なる旅人にこのページをささげます。
彼と会うことはついに出来ませんでした。
わたしが「反戦の手紙」の翻訳を終えたばかりの二〇〇三年末、最期の作品「メリーゴーランドのさらなる一周」をヒマラヤ山中で書いていた彼は、「日本に行って、平和について語りたい」と嬉しい希望を伝えてくれましたが、それも、かなわぬ夢となりました。
ここにティツィアーノ・テルツァーニを追悼するページを開くのは……なにかやるべきことを作って、悲しみの時間をつぶすためかも知れません。ただの自己満足ではないか、と危ぶむ気持ちも少しあります。
もしもわたしが大天才であれば、今夜一晩で彼の全著作を訳しあげ、さらに魔法が使えれば、それを明日には日本中の本屋・図書館にならべたいものです。わたしが受けた彼の恩に答え、彼の遺志を日本の読者たちの心のなかで「生きた」言葉にしてゆくための理想的な方法はそれだと思います。
現実問題、それは無理です。将来の希望目標にしたいと思います。
生前の彼の思い出を語ろうにも、メールでのやりとりをしただけのわたしには「反戦の手紙」のあとがきに書いたこと以上のことは、語れません。
今日、Tiziano Terzani "Fun" Club(www.tizianoterzani.com 英語・イタリア語ページ)の主催者マックスから、会報メールが届きました。写真は彼から借り受けたものです。マックスのホームページを訪れ、そのメッセージを読みながら、わたしは思いました、「テルツァーニの思い出は、彼ともっとつきあいの深かった友人たちに語ってもらおう」と。
以下にテルツァーニの最期の旅にささげられた、さまざまな友人たちの言葉を翻訳し、紹介いたします。翻訳ができ次第、順次追加して行く予定です。
こうしてテルツァーニを哀悼するページを開くのは……ある意味翻訳によって始まった彼との友情を、またこうして、ひたすら翻訳をすることによって、自分の心のなかに、また、日本人読者たちの胸になんとか「生かして」行きたいと言う気持ちによるものかもしれません。
肉体を去ったテルツァーニ(1938-2004) 一九三八年フィレンツエ生まれ。一九七一年からドイツ「デル・シュピーゲル誌」のアジア特派員。シンガポール・香港・北京・東京・バンコクで暮らし、一九九四年から妻のアンジェラ・スタウデ(作家)と二人の子供とともにインドに住んできた。アジア大陸の深い識者であり、国際的に高い評価を受けた高名なイタリア人ジャーナリストの一人であった。 「私にとっては、毎日がメリーゴーランドのさらなる一周なんだ」 ティツィアーノ・テルツァーニはそんな風に言っていた。彼の人生の新たな一日一日を、もう何度目になるか分からない、さらなる経験と知識を得るための機会であると語りながら。七月二十八日がそんな一日の最後となった。この知らせを妻アンジェラは次のような言葉で知らせてくれた「オルシーニャ村の谷でテルツァーニは穏やかに逝きました……もしくは、彼が好んだ言い方をすれば、その肉体を去りました」 この出来事は、まさに彼の最期の作品(『メリーゴーランドのさらなる一周』)のなかで、この上なく穏やかで深い形で予告されていたものだ。彼の人生のなかで最も深く神秘的な旅を語り、最も困難なルポルタージュ、自分自身の内面世界のルポルタージュを記すためのこの本の執筆作業は、まるで終わりを知らぬかのような推敲の繰り返しであった。 作品を未完成で遺してしまうことへの恐れから、テルツァーニは仕事に熱中した。書き記された形での自分の最期の物語が終わってしまうことへの恐れから、彼は際限なく読み返し、書き直しつづけた。最後に、テルツァーニの人生とその旅の多くの伴侶であったアンジェラ・スタウデが彼を説得し、原稿の三分の一以上を省かせた。
ヒマラヤ山中の彼の孤独な隠遁場所であった家から9・11テロ直後に記された『反戦の手紙』もまた、ガンに罹っていることを知った六年前からの(最新作に記された)彼の経験に照らし合わせれば、世界の出来事・人類の争いとその不幸を通常とはまったく異なった視点から見る者の証言として、そして、真の心の平安を得ることを知った者の証言として読むことが出来る。 |
ジーノ・ストラーダについて
ジーノ・ストラーダ(Gino Strada)は、戦争と対人地雷による負傷者の治療とリハビリを目的に世界の様々な紛争・貧困地域で活動するイタリアの人道団体エマージェンシー(www.emergency.it 英語・イタリア語サイト)の創始者の一人です。
「戦場の外科医」であるストラーダは9・11テロ直後にアフガニスタンに急行し、米軍による爆撃下の最前線をこえるなどの多くの苦労のすえに、閉鎖されていたエマージェンシー・カブール病院を再開しました(その経緯については、日本語未訳ですが、G.Strada "Buskashi' 〜戦場をゆく旅〜" にくわしく述べられています)。
やはりカブールに向ったテルツァーニとの邂逅の場面が『反戦の手紙』の"ヒマラヤからの手紙"のなかにあります。
ストラーダの処女作が日本語になっています: ジーノ・ストラーダ
まるで幻のように、テルツァーニはエマージェンシーのカブール病院に現れた。二〇〇一年の冬のことだ。彼はそのヒゲと同じく真っ白な木綿の服にサンダルばき、革カバンをたすき掛けにしていた。一方、わたしたちは厚いセーターにジャンパーという姿だった。テルツァーニはパキスタンからやって来た。
彼はすぐにわたしたちの病室を見学してまわることを希望した。見知らぬ人々に挨拶をし、「具合はどうだい?」とたずね、子供たちには微笑み、そして、耳をかたむけた。
「わたしの家」でその晩はともに食事をし、インドについて長いことおしゃべりをした――「ヒマラヤのそばの隠れ家に会いに来てくれなきゃ」それは果たすことの出来なかった約束のひとつになってしまった――わたしたちの仕事についても話しあい、彼の愛したアフガニスタン、その住人たちの苦しみについても語り合った。そして何より戦争の狂気について、彼の考えるその原因について、わたしたちは深い悲しみをこめて話しあった。わたしは彼の考えに耳を傾けていた。
わたしたちは話し合い続けた。「人間らしく」あることの出来ない多くの人々について、余りに豊かであるがゆえにもはや全く無意味で、また、使いみちもない経済的豊かさについて、世界中にはびこるように見える人種差別について、「民主主義」の名を関した人種差別についても語り合った。
そして、みんなでまた一緒に夢や希望、共通の計画をなにか一つ手にするために、再び学び、考え、自分の存在というものを再確認することが必要だということも。それはテルツァーニにとって肉体的な要求とも言えるものだった。
二〇〇二年の九月、「イタリアを戦争から追い出そう!」キャンペーン運動への参加を呼びかけるために電話で連絡を取った時、テルツァーニはためらうことなく、こう答えた「行くよ。記者会見の時にローマで会おう」。
こうして彼は数ヶ月のあいだ情熱的な平和の大使となった。人々の良心を魅了し真実と誠実さとで満たす、あの独特の才能を発揮しながら。その日々が彼に大きな犠牲を強いることになったことは、わたしには良く分かっている。彼が欠かすことの無かった瞑想の時間を奪うことになったのだから。
「君のせいで」ある日冗談まじりにテルツァーニが言った、
実際、その言葉通りだった。ここ数年のわたしたちの活動の中でおとずれた多くの素敵な瞬間、あるいはつらい瞬間にも、テルツァーニはそこにいて、わたしと実に多くの仲間たちが心のなかで彼のことを思い起こしてきた。彼はひとつの模範であり、わたしたちに安心感をあたえることの出来る人物だった。人間らしい慈しみをあたえる技、人々を癒す技を知っていた。それというのもテルツァーニは、その比類なき哲人としての人生と職務を通じて、あらゆる人々の世話を惜しむことが決してなかったからだ。
数カ月前、わたしはテルツァーニと連絡をとろうとした。彼の言葉と意見を必要としていたのだ。だがこの望みはかなわなかった。わたしたちは今、その理由を知っている。彼は本を書いていたのだ。またしても貴重な、もしかしたら、最も重要な本を。
ある日、テルツァーニから贈り物が届けられた。彼の最期の本だ。そこにあった献辞に、当時わたしは泣かされた。今も読めば泣けてくる。献辞はこう終わっていた、
「これがつまり、わたしが幾度か欠席してきた理由というわけだ。だが、心配しないでくれ。平和のための闘いにはわたしもいる。そう、いるとも!これから先もずっとだ!」
2004年7月29日、 スーダン、Khartoumにて |
7月30日フィレンツェ・ヴェッキオ宮での「お別れ会」の模様
テルツァーニの遺志で葬式はありませんでした。ですが、30日にフィレンツェのヴェッキオ宮で「お別れ会」の式典があり、故人の数千人のファンと友人たち、遺族が集まりました。その模様を新聞記事とファンクラブ主宰マッシモのメッセージの抄訳でお伝えします。(飯田)
------7月31日付コッリエレ・デッラ・セーラ紙より------
偉大な作家・ジャーナリストへの最後の別れを告げる式がフィレンツェであった。ヴェッキオ宮には数千人が集まり、式典の広間が変更された。
テルツァーニとの永遠の別れ――若者たちの拍手のなかで――
<フィレンツェ発・本紙特派員>
「66歳という年齢は死ぬにはまだ早いように聞こえます。でも、わたしの父はあらゆるものを眼にしました。興味を持っていた世界中の土地にさまざまなこと、その全て知ることが出来ました。父は世界の旅を終え、その最期には自分自身のなかでの旅を終えました」
フォルコ・テルツァーニは語る
「父は死んではいません、その肉体を後にしただけなのです。父にはすでに準備ができていました。ながいこと準備をしてきた彼は、穏やかな表情で逝きました。自分の母国で、アペニン山脈のなかにあるわたしたちの家で、山々の前でその離脱の瞬間を迎えることを父は決めました。その決断にはみんな驚かされました。そしてこの数ヶ月間近くにいて自分を守ってくれるように、父はわたしたちに頼みました。訪問客も電話も受け付けようとはしませんでした。帰国前に人生の最後の一時期を過ごした彼のヒマラヤの霊的な一角を、父はオルシーニャに再現したのです。」
亡くなったジャーナリスト・作家の柩もなければ、骨壷もない(「遺灰はオルシーニャの山と川にまいてくれと父は言いました」)この別れの式典、葬儀のない告別式は、昨日(7月30日)の午後、ヴェッキオ宮の二階にあるチンクエチェントの間で開かれた。当初式典の開催が予定されていたディ・アルミの間が予定時刻よりもかなり前に参加者であふれかえったために、急きょチンクエチェントの間での開催に変更された。(中略)
スピーチの言葉、参加者たちの拍手、そしてヒマラヤからやって来たKrishna Dasの奏でる優しい音楽がそこにあった。音楽家はテルツァーニの友であり、認識の道「ダルマ」をゆく同志だった。一列目には作家の家族たち。妻・アンジェラ、その表情は優しく、穏やかなまなざしをしている。そして子供たち、フォルコにサスキア(感極まり涙を見せたのは彼女だけだった)。
(以下略)
------Tiziano Terzani "Fun" Club ニュースメールより------
(前略)テルツァーニはすばらしい人だった。語るべきことを山と持っていた。彼の胸の中では好奇心の炎が燃えていて、その炎は最期の瞬間まで消えることが無かった。
最期の日々オルシーニャでテルツァーニは一本の樹の下に座って時をすごしていたとフォルコは語ってくれた。そこでテルツァーニはイタリアの「ヒマラヤ山脈」を眺めつつ、自然界がどれだけ素晴らしいか、自分がその一部分であると彼が今どれだけ強く感じているかを繰り返し語っていたと。(中略)。
彼の「メリーゴーランド」は停まってしまった。テルツァーニは白馬をおり、ヒマラヤより高く昇って行った。だが彼は、ひとつの嘘をついてわたしたちの元を去った。『メリーゴーランドのさらなる一周』は最後の一冊ではなかったのだ。
フォルコは「大いなる旅」について書かれた本のことを話してくれた。それは父と息子のあいだの対話からなる一冊で、言葉たちと写真で出来た本だということだ。
この嘘はわたしたちの寂しさを紛らわせてくれるだろう(以下略)。
|
世界の核心の特派員 Massimo Loche
彼とは、まだホーチミンとは呼ばれていなかったサイゴンで初めて会った。1975年の5月のことだった。「やっと来たね。era ora」と彼は言い、わたしを抱擁した。思うに、わたしたちが友だちになったのはその時のことにちがいない。テルツァーニは最初から最後までサイゴンにいて、あの戦争の全てを追い、全ての人々にそれを語った。しかも情熱と正確さをもって、ごく少数の人間にしか出来ないやり方で、彼はあの戦争を語った。裏付けられた本当の情報を伝えるために彼はどこにでも行き、危険を顧みることがなかった。「一桁でも間違いないように、死体のにおいに鼻をつまみながらだったよ」多くの有名な特派員たちのいい加減さと無責任な想像について語り合った時、彼はそう言っていた。
ベトナム戦争の最後の数日、サイゴンと親米のグエン・ヴァン・ティエウ政権を北ベトナムの各部隊がいよいよ瀬戸際に追い込んでいた時、テルツァーニは南ベトナム政権によってバンコクへと追放された。彼はその時の怒りをわたしにこう語った「戦争の終わりを見届け、新しいベトナムを人に語り聞かせる喜びを、やつらはわたしから奪い去ろうとしたのさ」。だが彼らのたくらみは失敗に終わった。サイゴンが大混乱に陥り、誰もがそこから逃げ出そうとし、ハノイの軍隊が数時間後にはその街に進軍しようと言うその時、テルツァーニは飛行機に乗り込み、唯一の乗客としてベトナムに到着し、すでにチェックの機能を果たしていなかった空港をゆうゆうと出て、サイゴンに帰ってきたのだ。それは「経験豊かな冒険者」ならではの冒険的な帰還だった。だが彼の冒険は常に、見つけるのが困難な真実を探そしだそうとする目的と情熱、その衝動によって支えられていた。彼は最期の瞬間まで冒険し続けてきた。それは、文明的で人間的な情熱と才能を費やすことを惜しまない探索の旅だった。
一方のわたしは、ずいぶん楽なやり方でハノイからやって来たところだった。わたしはそれまでハノイで「ウニター(統一)」紙の記者として戦争の最終段階を追っていた。この最初の出会いからまもなく、わたしたちは実に熱心に喧嘩をするようになった。喧嘩のたびにますます友情を深めながら。一年半前に、目を輝かせ耳もよく澄ませた、知識に餓えた若者たちを前にして、わが家とボローニャ大学の教室でテルツァーニと最後に幾度か出会った時、そうした喧嘩のことをわたしたちは思い出して話したものだ。だが、二人はどうして喧嘩することになったのだろう?答えは単純だ。北ベトナムでの滞在経験があり、あの戦争の勝者たちの理想的とは決して言えない部分も知っていたわたしは、民主ベトナムの将来へのテルツァーニの大きな期待に対し、疑問を投げ掛けていたのだ。「君はありがちな臆病な穏健派の共産主義者だな」彼は言ったものだ「これが本当の革命だってことが分からないのか?」。わたしは反論して言った、ハノイの政治局の頭には革命など毛頭ないこと、ベトナム国民の根本的な目標は民族的なもので、「国を統一し、アメリカ人を追い出す」ということなのだと。それは彼らの権利であって、そのためにこそ幾十万の人々が死んで行った、だが、それ以上はあまり期待出来ないと。
時が過ぎ、あの日々の歓喜と興奮も過ぎ去ると、二人の役割は入れ替わっていた。ベトナムの極めて困難な戦後の悲惨な事件の数々はみんなを失望させたが、テルツァーニはなおさらだった。そしてわたしたちは喧嘩を続けることになった。1975年の5月当時は考えることすら出来なかったかもしれないこの変化に対し、わたしにはあらかじめ備えがあり、彼はそうではなかったからだ。わたしにはベトナムの戦後に対するテルツァーニの批判が過剰に思われたので、国を統一し、外国人を追い出す権利がベトナム国民にはあったことを思い出させようとした。しかし、議論を重ね、年が経つうちに、最後には二人とも意見の一致をみることになった。
テルツァーニの人生のなかでは小さな、わたしにとっては大切な、このエピソードをこうして語ったのは、英知ある興奮がいかに強靱なものであるかを彼から学んだからなのだ。そして、真実・人間の営みの深い意味の終わりなき探求、人々が言おうとしないことを知りたいと思う気持ちといったものが、ジャーナリストの職務を尊厳をもって果たすための行動規範であるのみならず、なにより、よく生き・よく死ぬための作法であることを彼から学んだからなのだ。
人に何かを教えることを拒み続けてきたテルツァーニは、その人生をもって、わたしにそうしたことを教えてくれた。いつでも議論をする準備があり、いつでも持論を見直してあらたな考え方を受け入れることの出来る感激屋――そうした感激屋でありつづけるということで。
テルツァーニの人生を語ることは出来ない。それはすでに彼が自分の記事や著作のなかで語ってしまっているからだ。彼は常に第一人称で語ってきたが、そこにはいわゆる有名な特派員の主人公気取りはなかった。彼のそれは常に、自分以外の人々、つまり読者たちのために物事を見つめる眼としての第一人称であった。それにテルツァーニはすこしでも真実に近づくためには、必要があれば、自ら犠牲を払ってきた。彼は中国から国外追放された。それは、公式発表の古ぼけた真実に満足せず、国中を自転車で回り、彼が書くように「あたりをブラブラしながら」、外国人の立ち入りが制限された厳格な境界線を尊重することもなしに自分なりの真実を探しに行くこの記者が、北京の政府には我慢ならなかったためだった。
ベトナムに中国、日本・インド・中央アジア・タイに関するより深いリアルな知識をわたしたちが得ることができたのは、彼のおかげである。彼の本によって、アジア全域がわたしたちに親しみ深い、身近な場所になった。
彼がわたしたちに伝える知識は、なによりもまず彼の知識であり、涸れることを知らぬその好奇心であった。双眼を見開き、鋭敏な神経をもって――一年間まるごと飛行機に乗らぬように彼に「命じた」「予言」というチャンスを掴んだりしながら――テルツァーニは占い師や聖者たちのいる魔術的で神秘的なアジア世界を探検してきた。そして、一人の医師に「テルツァーニさん、あなたはガンに罹っています」と告げられた時も、彼は探検を続けた。彼の最近の数冊のなかで語られているこれらの旅は、しばしば読者のまゆをしかめさせるものだ。だが、テルツァーニはわたしに言ったことがある「『おい、君は仏教徒になっちゃったのか?』ときかれるたびに、わたしは大笑いして見せるんだ」。彼は、仏教徒ではなかった。だが何事にも好奇心おう盛で、生と死の謎のより深いところへ向う心構えがいつでもあったことは、間違いがない。最後の作品のその最後の数ページを読んでみれば、皮肉・頭脳の明敏さ、喜びの興奮と苦悩、つまりは、ティツィアーノ・テルツァーニのフィレンツェ人魂をそこに読み取ることができる。
生と死の境界をゆくこの最後の冒険こそが、2001年9月11日の悲劇から生まれたあの美しい数通の『反戦の手紙』を記すきっかけを彼にあたえてくれたものだ。それは、彼自身が書いているように「すべてを改めて考えてみるための素晴らしい機会」であった。『反戦の手紙』とは、彼の個人的な人間研究があらゆる人々の手に届くこと、彼の思想とその情熱をあらゆる人々に伝えることを可能にし、平和の意味と、こんなにも残酷でしかも美しく、不安に満ちそれでいて希望にも満ちたこの世界に生きる意味を問う、より豊かで深い探求となることを可能にした一冊だった。そして彼は『メリーゴーランドのさらなる一周』でそこからさらに先へと進んだ。それは彼の病と喜びに満ちた己の死についての本であり、健康、そして人生についての本である。
テルツァーニは去って行った。ピストイア地方のアペニン山脈の森のなかにあるオルシーニャ村の家で彼は逝った。そこは故人が最も愛した場所だ。わたしはその家でかつて、テルツァーニとアンジェラ、青春期にあった輝かんばかりの子供たち、そして教養豊かな世界中の彼の友人たちとともに幸福な日々をすごす幸運に恵まれた。そこには多くの笑いと、とても穏やかでいて実に才気あふれる会話があった。そのすべてが、当時もやはり飽きることなくあらゆることを繰り返し議論の対象としたテルツァーニによって導かれていた。あの家の芝生の上でわたしたちに「再びすべてを一から考えなおしてみるための」あらゆる機会を逃すなと説いていた彼の姿を思い出すのが、わたしは好きだ。
|
「コッリエレ・デッラ・セーラ」紙はこの数年、テルツァーニの記事を時おり掲載してきたイタリアの日刊紙です。デ・ボルトーリとテルツァーニの関係は「反戦の手紙」のなかに以下のように記されています。(飯田)
----
白馬に乗って
偉大なジャーナリスト・作家の思い出を「コッリエレ・デッラ・セーラ」紙の元編集長が綴った
Ferruccio de Bortoli
「どことなく東洋風な素敵な店がホテルの下にあるのを見た。そこで茶でも飲もう」。
『メリーゴーランドのさらなる一周』――一人の同僚であり友人であった彼の死がひきおこす痛みの中、わたしは彼がガンとの闘いを語った最期の著作『メリーゴーランドのさらなる一周』の数節を思い出している「わたしの人生はメリーゴーランドに乗り続けてきたようなものだ、そう思ったのだ。最初からわたしはその中の白馬に乗ることが出来て、これまで自分の気の向くままにぐるぐるまわり、揺れてきたのだ。しかも、誰も一度も一一そのことに気がついたのは初めてだった一一わたしがチケットを持っているかどうかを確かめに来ることもなく」。テルツァーニはそのチケットをもっていなかった、他の人々と同じく。「さて、今こうして係員がやってきて、わたしはつけを払うことになった。上手く行けば、ひょっとしてノノメリーゴーランドにもう一周、乗れるかもしれない」。係員の訪れは突然ではなかった。テルツァーニはそれをあらかじめ告げられていたし、そのことについては『占い師は言った』の中に書いていた。本の中に登場する占い師のひとりで、人の一生を紅葉した一枚の葉の中に読み取ることが出来る、シンガポールのRamanickmがテルツァーニに予言していたのだ。彼は59歳から62歳の間にひとつの「困難」、もしかしたら手術、を乗り越えなくてはならない、つまり、誰かがチケットを持っているかどうか確かめにくるだろうと。治療のためにニューヨークにやって来た時、静かなるヒマラヤへの郷愁を強く感じながら、テルツァーニは床屋に行き、丸坊主にするように頼んだ。(訳注、テルツァーニは体毛の抜け落ちる化学療法を前に、トレードマークとなっていた長い白髪とヒゲをあらかじめ捨て去ることにした)。床屋の主人は拒否する。「考え直して下さい。明日になってあなたがここに帰ってきて、店を焼いたりすると困りますから」。テルツァーニは主人を説得するが、ヒゲをそらせることは出来なかった。ヒゲは彼が自分でそった。そのヒゲはかつてニクソンにかかわる賭け――彼はニクソンが大統領選に勝つことはないだろうと考えていた――に負けた時にのばすことに決めたものだった。同じくニューヨークで、彼はあの東洋風の美しい服を脱ぎ捨て、「億万長者のためのダフィーの安売りウエア・ショップ」に入るとフィットネス・ウエアを二着に、ウールの帽子を二つ買った。店を出たテルツァーニは同僚である一人の旧友とすれちがうが、友は彼に気がつかなかった。新しい服を着た彼が満足を覚えたのは、おそらくその時が最初で最後だろう。
生のなかの旅――病の中をゆく彼の旅は生の中をゆく素晴らしい旅、「わたしたちの時代の悪しきものと善きものの中をゆく旅」であった。テルツァーニは、変わった患者だった。「You wait, you die」一人の親切な女医が彼に告げた「待てば、あなたは死にます」と。なぜガンの治療の過程ではむやみに戦争用語が使用されるのかと彼は自問する。やっつけるべき敵?それも自分の一部だと認識した方が良いのではないか?数年前、あるベトナムの仏僧が彼にこう勧めた「毎朝、目が覚めたら、あなたの心臓と胃になにか優しい言葉をかけてやってください。何と言っても、健康の多くは彼ら次第なのですから」。彼の旅は長いものとなった。それは世界中のさまざまな治療、医学、文化のなかをゆく旅であった。科学治療からホメオパシー、アーユルヴェーダ、気功、チベット医学、漢方。「ご職業はなんですか、テルツァーニさん?」「プロの病人です」。そして、ひとつの手術が旅の終わりをつげる。外科医は彼の腹を切開し、なにもせず、また縫合した。「最高の医師はわたしたち自身のなかにいる」。それは最高の医師であったかも知れないが、彼の治療は失敗した。
ミラノで飲む茶。テルツァーニはTwining'sのティパックをいくらか不快げに開いた。病は彼のなかにあった。だが、彼はそれを微笑みながら受け入れていた。彼は微笑み、冗談を言っていた。まるでその場所でも宇宙と調和しているかのように。脚を組み眼を閉じて座り、瞑想しているかのように。彼はそこでも、三千メートルの高みにある自分の隠れ家にいる時と同じように存在することが出来た。「メールアドレスは前と同じかい?」「ああ」。Nemo Nessuni(誰デモナイ・誰デモナイ者タチ)。実に素敵な名前だ。当時のわたしは、それが彼の身を隠すための手段なんだろうと思っていた。その命名の真の理由は、彼の最後の本を読んでから知ることになる。治療の合間に、あるアシュラム(訳注、インドの修業のための場)にこもってサンスクリットを少し学ぶことになった時、テルツァーニはAnam「名無し」と名乗ることに決めた。「なんとか名をあげようとして費やしてきた人生を終えるのに、それは実にぴったりな名前に思われた」。別れる時、彼はわたしに小さな化石を一つプレゼントしてくれた。彼は化石を片手で握りしめてから、わたしに手渡した。「大事にして、身の回りから離すな」。もしかしたらその小石は彼の占い師の枯葉のようなものなのかもしれない。自分には読み方が分からないのが残念だ。
|